一如会 駒澤大学高等学校

ベトナム・フエ植樹ツアー参加記録/浦 敏之

第二部

第三部 「フエの街」

第四部

第三部 「フエの街」

フエ空港ではガイドのコンさんが出迎えてくれた。「シンチャオ(こんにちは)」。中部の町フエは南北ベトナムを分けた北緯17度線の近くである。ベトナム戦争の激戦地である。ホテルまで興味をもって街並みを見たが表面的には他の町と特に変わった様子はなかった。

フエは1802~1945年まで首都であり、ベトナム最後の王朝(グエン=阮朝)のあったところである。現在の人口は150万人である。仏教寺院が300ヶ寺ほどある。


車窓から見ると、家々には祠がある。2階にある家もある。祠には馬の像を装飾したものを多く見る。祠の形は大きいもの装飾の施された物それぞれである。マレーシア、カンボジア、ラオスでも見た形である。信仰心の篤さを感じる。

バイクに乗るものが多い。首都のホーチミン市の様には混雑していないが、運転マナーは目茶苦茶で、曲がりたい時に曲がり、走りたい方向に他の車はお構いなくどんどん進む。ロータリーでも少し避ければお互い通行しやすそうだが頑として動かず、前輪を避けることもしない。二人乗りバイクが多く、時には子供を載せていて三人乗りのバイクにも出くわした。


二日間滞在するフォンザンホテルに到着する。フォーン川(香川)沿いにあり、商店街も近い。レストランへ、ベトナム中部料理である。バスで行ったがホテルからすぐで、歩いても5~6分である。フエのビールがあるとのことで早速試す。フーダービールさっぱりとしていた。

食後、ホテルに戻りシャワーを浴びた。そうだ、フエの街は安全だとガイドが言っていた、散歩しようと、さっそく街に出る。どこに行く当てもなくホテルを出て右に行き、レストランや商店が並ぶ賑やかな通りを歩く。この近辺はレストランと土産物屋、小間物屋、それに絵画店が並ぶ。どの街でも画廊や通りで印刷がか版画かは分からないが絵を売る人がいる。フォーン川岸に出ると人々が散策している。夜店もたくさん出ている。飲食店もある。若者が多い。家族連れもいる。夜店の小間物屋をのぞいたり、若者たちを観察したりのんびりとチャンティエン橋を過ぎ、フースアン橋まで行き引き返すことにした。同じ道を変える。飾りをつけたレストラン船が何艘もあるが客は多くない。似顔絵かきの若者が4名座っていた。真ん中の青年に書いてもらうことにした。だんだん人が集まってきて、若者の手元と私の顔を見比べて何か言っている。隣に座っていた絵描きの若者がにわかに私の似顔絵を描き始めサッサと書き終わってしまった。もう一人の方は真剣な顔つきで生真面目に書き上げた。二人それぞれに5万ドン払った。良い記念となった。彼らも夕飯くらいは食べることができたろう。ホテルの近くまで戻り、レストランでコーヒーを飲む。大通りを行く通行人たちを見ながらベトナムコーヒーを楽しむ。実はこのコーヒーは期待していたのとは違い普通のコーヒーであった。ベトナム独特の入れ物で濾した濃いコーヒーを練乳で飲みたかったのだ。路上で土産用絵画の売人が旅行者を見ると熱心に声をかけていたが、断られると次の客を見つけ売り込んでいた。ホテルやレストラン街の近くではシクロがたむろし、客を待っている。眼が合うと声をかけてきた。


「ミンマン帝廟」

市内見学に出発する。30分ほどでグエン朝第二代皇帝ミンマン帝廟(明命1821~842)に到着する。

駐車場から塀沿いに歩く。右側にはバナナ畑があり、住民がバナナを売っていた。正門をはいると広場の左右には武官・文官・象・馬等の像があり、建物内に大きな石碑がある。碑文は漢字である。ベトナムでは、現在は漢字を読める人は特別に勉強した人間だけだ。更に建物群を通過し進むと蓮池があり、その奥の森の中に陵がある。


「トゥードゥック帝廟」

トゥードゥック帝廟に向け出発する。20分ほどで到着する。第4代トゥードゥック帝(嗣徳帝1847~1883)はフランスとは一線を隔し、中国の政治制度を取り入れた。陵は在位期間36年間と長い皇帝が存命中に別荘として作った。王宮から6km離れているそうだが、ここまで来るのに3日間かけて来たとのことである。池と月見楼閣を右に見、さらに進むとフォーン川が見える。石段を登ると左右に文官・武官・馬・象の像の前を通り石碑を回りさらに階段を上る。そこには石棺が置かれていた。しかし、この地域のどこに埋葬されているかは不明だとのこと。石棺には遺体がないということか?

「カイディン帝廟」

第12代カイディン帝(啓定帝 在位1916~25年)の陵に到着する。啓定帝の時代はグエン朝末期の時代でフランス植民地時代である。啓定帝はフランスの傀儡皇帝と言える。啓定帝陵は丘の上にある。石段を上がり像群の間を通りさらに階段を上がる。鉄筋コンクリート製のフランスバロック様式の建物で中に入ると壁面には漆喰や陶片やガラス片のモザイクが埋められ金襴豪華な装飾が施され、これが廟かと思う。建物の中央には啓定帝の座像がある。

「フエの街の朝」

5時30分起床し、散歩に出る。ホテル正門を左折し、さらに左折しニュエンシンクン通りを北上するとすぐにフォーン川岸に出る。ドプド橋の左側では川に入って大きなざるで老夫婦が小さなマキ貝をとっていた。通りの両側は商店街で開店準備中の店もあり、店の前で椅子を出して食事をする者もいる。食堂には朝食を食べる人がいる。ベトナムでは朝食は食堂ですますことが多いらしい。綺麗に装飾された寺院らしき建物の門には萼が下げてある。自転車に乗った中学生が赤いネクタイを首に巻いて通る。随分とはやい通学である。後で知ったが6時45分には授業が始まるとのこと。母親の自転車に乗った小学生が行く。左の道から多く人が出てくるので曲がってみた。細い幅3m位の橋があり渡ると左側に小学校があった。


ベトナムでは学齢人口の割に学校が少なく、午前の部と午後の部の二部制だ。昼食時に交代する。日本でも昭和20年代の小学校は二部制であった。

学校制度は小学校は5年・中学校4年・高校3年・大学4年だ。6~8月が夏休みである。9月に新学年が始まる。新学期が始まったばかりの児童が続々と集まってくる。正門前の商店や道路脇の露店で時々小学生が買い物をしている。

正門の前を左折する。細い路地を行くと町の人がけげんそうな顔をしてみている。そのまま前進すればホテルに帰れるとの心づもりあった。小さな食堂の前で小学生が制服姿でフォーを食べていた。自転車に乗った人が盛んに行きかっていた。自転車の多くは反対方向に進み、私の進む方向には走って行かないので少々不安になり、しばらく進んで引き返すことにした。後で地図を見るとここはフォーン川にあるヘン(Hen)島でどこにも出られないことが分かった。



路地を歩いているとどの家にも祠がある。多い家には3~4個もある。祠には馬の像を装飾したものを多く見る。祠の形は大きいもの装飾の施された物それぞれである。玄関を入ると正面に仏壇?のある家が何軒もある。ある家には屋根に金色の仏像?が飾ってあった。お経を読む声が聞こえてきた。おばあさんが熱心に経を読んでいた。

商店の二階のベランダに祠を飾る家もある。商店の柱は神棚があり線香立てがあった。立木のムロの祠もあった。ある商店では中年の男性が線香を祠にあげていた。ガイドの説明ではこれは民間の先祖信仰・商売繁盛・家内安全や仏教等の信仰心の表れだとのこと。マレーシア、カンボジア、ラオスでも見た形である。

6時30分ごろになると自転車に乗った女学生が走り去る。白いアオザイの制服を着た女子高校生の自転車が二台三台と走り去って行った。このころには小・中学生の姿はほとんど見られなくなった。


7時が近づくと通勤者の自転車が多くなった。通りも混雑してきた。天秤棒を担いだ女性が行く。上着とズボンが同じ柄の服を着る女性が多い。スゲガサをかぶりバナナを天秤棒で担ぐ老婆が行く。リヤカーに荷物一杯にして運ぶ老婆がいる。女性が働く姿を多く見る。


「王宮」

王宮に向けて出発する。10分で王宮駐車場に着く。呼び込みに熱心な土産物屋のおばさんに悩まされるのが常であるが、ここでではおばさんが声をかけるがそれほどしつこくない。堀の橋を渡る。城門を入ると右手に大砲が4門あった。左手奥の旗台には大きな国旗がはためく。この台は1823年に建造されたがその後何度か再建されている。

ここはベトナムのグエン朝の王宮で初代嘉隆帝が建設を始め、第2代明命帝の時代に完成した。

城壁は函館の五稜郭と同じ建築方式で、フランス人ヴォーバンにより考案され、ヴォーバン式とよばれる城壁をもつ。「午門」の左入り口から宮廷内に入り、裏手の階段を登ると王宮の内外を良く見渡すことができた。内側には池の先に太和殿がある。午門は大きく立派な作りで、奇跡的にベトナム戦争の被害に合わなかったそうである。さらに進むと、太和殿がある。太和殿を回り奥に進むと建物は破壊され壁のみが残る。その壁には弾痕が生々しい。その奥の中央部は野原である。あちらこちらで復元工事が行われている。王宮内を案内する象がいた。次回は象に乗ってみよう。


「天姥寺」


10分ほどで、ティエンムー寺(天姥寺)に到着。この寺は禅宗の寺で僧は総勢80名が修行している。僧は妻帯禁止だ。この寺はフォーン川に面している。丘の上からの眺めはゆったりと流れる香川の姿はここの寺の住人に、世の中をこせこせ眺めないで大きく長い歴史を見ながら人間を考えよと伝えているようで素晴らしい。石段をあがった先には紹治5年(1845)に建立された七層の慈仁塔がる。慈仁塔は福緑葆塔ともいう。現在の塔は1884年の再建である。内部は7階建てで、各階には仏像の坐像が安置され、過去七仏をあらわす。最上部には釈迦如来像が安置される。

中央に大雄殿(仏殿)があり、その左手の厨房に行く。ちょうど昼食時で小僧さんが忙しそうに働いていた。得度前の小僧は髪の毛を残していた。僧侶たちが学んでいる仏教書が展示されていた。壁には一日の時間割が張ってあった。大雄殿の背後には弥勒殿がある。

庭には様々な植物が植えてある。「ジャックフルーツ」の実を見てあまりの大きさにびっくりして写した。

僧ティック・クアン・ドック(1897~1963)が南べトナムの首都サイゴンまで乗っていったオースティンと焼身供養の写真が展示されている。ゴ・ディン・ジエム(ベトナム共和国初代大統領で熱心なカトリック教徒)政権はカトリック信者が多く、仏教に対して弾圧的処置をとっていた。1963年6月11日、ティック・クアン・ドックはサイゴンのアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身供養を行なった。ゴ・ディン・ジエムの義妹マダム・ヌーが、これを「僧侶のバーベキュー」と評して、ゴ政権に対する国民の不評をあおることになった。