一如会 駒澤大学高等学校

ベトナム・フエ植樹ツアー参加記録/浦 敏之

第三部

第四部 「ホイアンへ」

第四部 「ホイアンへ」

フエ市のホテルからホイアンに向け出発する。国道1号線を南下する。昨日植林したランコー村のドライブインでトイレ休憩。コーヒーを飲むがやはり期待したものではない。


「ホイアン市内見学」

ホイアンの街は初めてなので朝5時30分に散歩に出る。ホテルを出て左折しホーチミンの肖像画のある看板があり、そこを右折するとトゥボン川が見えてきた。カムナム橋の上で若い女性が日の出の写真を撮っていた。撮影の様子からみると写真家の様であった。私もまねて橋の上から朝日を撮っていたが、たまたま天秤棒を担いだおばさんが通ったので、これぞベトナムの力と感じて写させてもらった。西を見ると市場が賑わっていた。とりあえず橋を渡りしばらく街の様子を見て引き返し市場に行くことにした。川沿いに市場に入ってゆくと魚や野菜等を売っていた。豆腐を売っていた。氷屋が氷をのこぎりで切っていた。懐かしい光景である。


途中通学する高校生がたくさんいた。学校の様子を見たくて歩いてゆく。正門に出たがあまりジロジロするのも気が引けて写真を数枚とって立ち去る。ホテルの方と思い歩いてゆくと小学校があった。腕章をつけた学童が二名校門の前に立っていて何やら注意している。子供を乗せた自転車が次から次とやってくる。入り口が狭くごった返している。

16世紀ごろには朱印船貿易を行い、日本人町があった。見学料は9万ドンで18か所の史跡のうち5か所入場見学できる。世界文化遺産の街ホイアンはベトナム戦争の被害を受けずに昔からの家が残されている。中国風の家が多い。フーンフンの家を見学する。日本人が建てたといわれる中国式の遠来橋(日本橋)は屋根つきの橋には入り口に竣工年の干支である猿の像がある。橋の中ほどに大きな祭壇がある。そして出口には完成年の干支の犬の像がある。クアンタンの家を見学したが間口は狭くて奥行があるまるで京都の町屋風である。仏壇や祭壇が6ヶ所あり宗教に熱心なようだ。壁に1964・1999・2007・2009年の洪水の位置を示す書き込みがあった。1964年は一階部分が完全に水没してしまった。10・11月は雨期で洪水の多い時期だ。福建会館前からシクロに乗り20分ほど市内を見る。シクロからみる町並みはまた新しい雰囲気となる。土産物屋やレストランが多い。シクロを降りてから本屋でベトナムの地図を購入する。


「世界文化遺産ミーソン遺跡見学」

世界文化遺産ミーソン(美山)遺跡見学に出発する。ホテルを出て、国道1号線を南下し、しばらくして西に向かう。三角の山に向かって進む。車中からの観察するところでは、田圃で稲刈りをしていたり、家の庭で脱穀していたりする。時々道の脇や道路近くの空き地にモミが干してある。当地では脱穀した米を乾燥させるためにモミやトウモロコシの実を広げる。白い丸いものを干していたがそれは生春巻用の皮である。

ミーソン谷に到着する。入り口には土産物屋やレストラン、民族舞踊をみせる舞台がある。入場料6万ドン払い、遺跡見学に行く。遺跡は林間を行くと忽然と建物群があらわれる。どの建物も破壊されているが、修復もすすめられている。AからHまでのグループに分けられているが我々は大きなまとまりとなっているAからFまでを見た。ミーソン遺跡群は1885年フランスにより再発見された。フランスにより修復もされたが、最近は日本のトヨタ財団も支援している。


ここは4世紀~13世紀まで古代チャンパ族が建てたヒンズー教の寺院群である。レンガ作りである。寺院建築技術の高さを表すようにレンガには接着剤を使った跡がない。積み上げたレンガに直接神々や装飾を彫刻している。チャンパ族の優れた建築・彫刻技術を見ることができる。建築技術解明はこれからの研究をまつ。カンボジアのアンコール遺跡群で見た神々と共通している。

B・C・Dグループの遺跡群はその美しさを想像させる建物が多く残っている。ここからガルーダの顔に似た聖山「マハーバヴァタ」を望むことが出る。寺院の屋根や壁には植物が生え、長く放置され管理が行き届いていなのだろう。建物の中には修復され、展示館とされるものがある。ヒンズー寺院であるためシヴァ神を表すリンガーとヨニが多い。天女「アブサラ」のレリーフは残念なことにほとんど顔が破壊されていた。

残念なことに、ここはベトナム戦争の激戦地の一つで、1969年アメリカ軍の空爆でかなり破壊されている。弾痕が壁面に多数残されている。また、飛行機から落とされた爆弾の大穴がいまだに不気味な姿を見せている。1979年にはベトナム軍が地雷や不発弾等を取り除き、この一帯を安全な土地にした。今後はレンガの山となっている遺跡が一つ一つ修復され、かつての華やかな時代の寺院群の状態に復元される日が楽しみである。


「結び」

我々の世代はベトナム戦争に対して無関心ではいられない。また、昔の話と言うよりまだまだ心の中に生きている大きな問題である。米ロ冷戦時代の悪夢である。戦争のあとをほんの少しだが見てきたことで、何か一つの区切りをつけることができそうだ。べトちゃんドクちゃんに代表される枯葉剤の散布による人間への計り知れない悪影響を思い出さずにはいられない。カンボジアでは地雷の影響がいまだに大きな問題であると同じように。どんな理屈をつければ戦争を肯定することができるだろう?平和を心から願う。表面的には平和な日々を過ごすベトナムの人々にこれからもベトナムが平和な国であり続けるようにがんばってほしい。


(2011年12月記す)