一如会 駒澤大学高等学校

ジャカルタ植樹とバリ島を訪ねて/浦 敏之

第一部

第二部 バリ島観光

第三部

2012年7月16日(月)バリ島観光

朝、別メニューのカヌー乗りとサンセット・ディナークルーズに参加する水野さんの見送りを受け、その他の人はオプションプランのバリ島見学ツアーに出発する。

<ウブド「Ubud」芸術村>

近隣の村では得意な分野で手工芸品を作っている。マス「Mas」村は木彫りの村で、農民たちが木彫の作品を作る。バトン村は家具の生産で有名である。

雑貨店「Windu Sari」ではバリ島特産の植物「アタ」で編んだバッグ、バティック織り、コーヒーその他土産物を売っている。手作りのアタバックとバティック織りのテーブルかけを購入する。

<ホテル「The Sultan Hotel Jakarta」へ>

このホテルは大きく、いくつかのブロックに分かれている。ロビーを入ると壁面には絵がかけられていた。売り絵である。我々はラグーンタワーに滞在する。部屋割り後自室へ。このホテルは元ヒルトンホテルであったとか。なるほどよくできている。庭にはプールやテニスコートがある。プールには優雅そうに泳ぐ人がいる。庭を散歩したが手入れが行き届き、庭園は広く花々が咲く。

<チュルク村は金銀細工が盛ん>

銀製品店では駐車場に「マンゴー」の木があり実がなっていた。マンゴーには落書きがあった。愛想のよい店員がペンで落書きをしてよいとのことであったが遠慮した。「アラマンダ」という蔓性の白いきれいな花が咲いていた。黄色い花は「パディ(Padi)」、「シダ類」はソーラスが大きい、「ブルメリア」はバリ語では「カンボャー」といい白、黄、紫、ピンクの花がある。「胡蝶蘭」は「アングレー」と言うと店員に教わった。

店の二階のバルコニーから見るバリ島の田園風景にうっとりしていた。バリ島では米が年に2~3回取れる。

バリ人は牛は死神の乗り物とし、牛肉を食べないが、農村部にはあちこちに牛がいる。バリの牛は尻が白い。


<聖なる水の寺「Tirta Empul」(ティルタ・ウンプル寺院)>

この寺はバリのワルマデワ王朝(10~14世紀)に建設された寺院である。寺院内に湧く泉は962年に発見されたという伝説がある。

寺に入ると大きなガジュマルの木が目につく。バリ島では背の高いものに精霊が宿ると信じられていて、この木も篤く祀られ、前に像が置かれ、供え物がされている。門を入り、さらに寺を進むと池がある。寺の奥の泉から不老不死の聖なる水がわき出ている。最初の池は魔よけの泉とされる沐浴場で熱心な信者が祈り、吐水口から絶えず流れ出る水で身体を清めていた。寺の所々で熱心に祈る人々の姿あり、寺の人が聖水をかける。

寺の中には金色に塗られた煌びやかな堂がいくつもあった。さまざまな石像が祀られていた。

寺の横の丘の上にはスカルノ大統領時代に建てられた別荘があり、デビ夫人も来荘したそうである。現在は迎賓館として使われている。

「ワル」というフヨウに似た黄花があった。帰路には土産物屋が並ぶ。


<キンタマーニ高原「Kintamani」で昼食>

高原に行く途中の道路の両側には祭りの飾りがあった。

バスから眺めていると、寺や家々の祠に目を奪われる。本当に神宿る島と実感する。

昼食のレストランのバルコニーから眺める景色はこれまでのイメージと変わったバリ島が現れた。ここはキンタマー二(外輪山にあるの意)高原と言い海抜900mにある。(往きは数か所見学してゆっくりと登ってきたが、帰路はいっきに海岸まで下りたので900mから0mまで下ったことになる。)途中は樹林地帯であった。ここからはパトゥール山(Mount Batur 1717m )とパトゥール湖(Lake Batur)、その奥にはアグン山(Mount Agung 2567m)が見渡せる絶景の地である。アグン山の中腹にはバリヒンドゥー教の総本山の一つブサキ寺院(Pura Besakih)がある。

昼食は民族色豊かな食事でカフェテリア方式である。盛り皿から一つ一つピックアップしてくるだけで十分な量になる。

レストランからバスまでの間に物売りが付きまとう。ガイドの話ではこれらの物売りは偽物が多いか本物を見せて偽物を渡すそうだ。これまでいろいろな国で何度騙されて安物をつかまされてきたことか。


<トゥガナン村「Tenganan」>

バリ島の先住民「バリ・アガ」が昔ながらの生活をし、昔ながらの村の形態を残すところである。屋根はヤシの葉を葺いている。世界的にも珍しい織物の経緯絣(たてよこがすり)、彫刻やヤシの板に絵を描いて売る等の売店が軒を連ねている。最初に寄った家でこの経緯絣の実演を見学した。婦人が機織り機を操っていた。素朴な模様の織物だが、この織物の良さがわからず購入する気にはならなかった。

村の中には黄色や赤という奇妙な色を塗られた軍鶏が多くいた。羽にペンキを塗られた軍鶏の気持ちはいかがであろうか。闘鶏用で、死んだ鳥の血は神にささげられる。

コウモリの寺に行く途中の道路右側で煙が出ている場所があった。多くの人が集まっていた。これは火葬場だそうだ。4体が積み上げたマキで火葬されていた。


<蝙蝠洞窟の寺 ゴア・ラワ寺院「Goa Lawa」>

西暦1007年にジャワから来たMpu Kuturan (ンブ クトゥラン)という僧侶によって建立されたという古い寺である。ゴア(Goa)は「洞窟」、ラワ(Lawa)は「蝙蝠」の意味である。海沿いにある寺である。山門には金色の蝙蝠の飾りがあった。

入口でサロン(腰布)を巻き、スレンダン(帯)で止めなくては入場を許されない。

寺の奥にある洞窟には蝙蝠が多数生息して絶えず動き回っていた。洞窟の壁には太い蛇が壁に張り付いていて、頭を上げたり下げたりしていた。この蛇は神のもので大切にされている。蝙蝠を食べることはない。蛇も蝙蝠も何枚も写したがすべて失敗であった。カメラと腕のせいか、パワーポイントであることから考えると神の力か理由は不明である。

寺を出発し、ケチャックダンスを見るために西に向かって走る。すると左手に小島(Nusa Penida、Nusa Lembongan, Nusa Ceinganの三島からなる)が見える。これらの島はホテルからも見える。


<ケチャックダンス「SAHADEWA Tari Kecak & Sanghyang Stage Chandra Budaya」>

ケチャック会場の観覧席は屋根があった。座席から空を見上げるとタコが揚がっていた。

来る途中の海岸でもたくさんのタコが揚げられていた。近くの町でタコフェスティバルが予定されているとか。フエスティバルの凧は大きなものらしい。

観覧席のすぐ後ろには女子の大学生の一団がいて箸が転んでもおかしな齢ごろと見えてにぎやかであった。

暗くなると火を運び男たちが現れてダンスの始まりである。猿役の男たちは盛んに「チャッ チャッ」言いながら動く。ケチャックダンスは「サンヒャン」というトランスダンスに起源をもつ。ダンスの主役たちが民族衣装に身を包む。ラーマ王子とシータ姫が踊る。ガルーダ、猿の王様、白い猿のハノマンがやり取りをする。最後は「サンヒャン・ジャランダンス」でトランス状態の男が燃え盛るヤシの塊の火中を歩いたり、火を蹴散らしたり、座り込んだり本当にやけどしないのか心配するほどの演技であった。


<宮廷料理の夕食「Restaurant Ayodya」>

このレストランの王宮料理はジャワ式王宮料理で、16世紀末ごろジャワで成立したリスタフェル(宮廷料理)と植民地時代のオランダ料理様式がミックスしたものである。

バリのレゴンダンスやジャワのダンスを鑑賞しながらの食事である。ほかの客がたまたまいなかったので、本日は貸し切りで、舞台正面の冷房が効いた部屋でゆっくりと食事を楽しむ。経営者は日本語が巧みでいろいろと詳細な説明をした。踊り手はこの村の女性である。村人は小さなころから民族舞踊を習っている。

メインディッシュは舞台に勢ぞろいした民族衣装の女性がそれぞれ一種ずつ皿に盛ってゆく。中央のサフランライスは山に見立てて盛り上げ、バナナの葉の帽子をかぶっている。インドネシア流焼き鳥や空芯菜の炒め物、エビのインドネシア風ソースかけその他大変おいしく豊かな気分で食すことができた。

最後は踊り子たちとの記念撮影で締めくくる。


<ホテルへ>

長い一日であった。ホテルに到着するとすぐに中西・水野さんの部屋で恒例の懇談会となる。バリ島のホテル最終晩である。清水さんの小学校時代に経験した南米の話にはビックリ仰天した。毎朝、正門にその日に捕まえたコブラが並べられていた話や誘拐されそうになったがやっとのことで逃げた話を聞いた。猛毒のコブラが小学校内に入ってきてうろうろしていたり、臓器販売目的に子供を誘拐するということが本当にあることを確認した。

この日になってやっと「バリハイビールBali Hai」を飲んだ。ホテルの冷蔵庫にはバリハイビールが入っていた。うかつであった。ホテルの冷蔵庫を利用することがなかったためにどのメーカーのビールが入っているか確認をしなかった。